弥勒菩薩から頂いた「言の葉」灯火のような存在であれ

京子です。

広大なネットワークの中から、このブログを見つけていただいて

ありがとうございます。

今日は満月。

大事な節目のような気がして、ここ最近、受け取った言葉を紡いでみようと思う。

つい先日、広隆寺の弥勒菩薩に会いに行きました。

弥勒菩薩の前に立った時、「お前はどこに行きたいんだ?」という心境で・・・

なんだか、迷子になっていた。

今まで向いていた方向性が全然見えない。

年末の断捨離のせいだろうか。

ハートが揺れ動かず、ときめきもなく。

普段ならときめくようなシーンでなぜか涙が流れてくるではないか。

今まで、ときめきは私の原動力だったのに。

ときめくものに触れるたびに、泣けてくる始末。

弥勒菩薩の前で、しばらく座って問いかけてみました。

「先が見えないよ〜。」

すると、弥勒菩薩の頭上に光の柱を感じました。

一瞬、電灯かと思ってしまいました。

その柱がふっとなくなったかと思ったら、弥勒菩薩の前に何かがいる・・・

その瞬間

「一切の影響を受けない。灯火。導き。」という言葉が浮かびました。

受け取ったそれが、何を意味するのかはわからないけど、

とっさに手帳に書き留めました。

その時の私は、自分の道筋が見えないまま、何より、心が疲れていました。

ちょっと話は飛ぶけど、今から5年ほど前に遡ります。
私は、ライフワークを仕事にすると決めました。

PC一つで地球を庭のように移動して文章書いて暮らすのが夢w

ちなみにこの夢を持った頃の私は、そんな世界とはかけ離れた、家庭で子沢山の中、身動きが取れない4児のママでした。

その頃、人生の指針にしていたDr.ディマティーニの本を毎日持ち歩いて、

ディマティーニのように世界中を移動して暮らしたい!と思っていた。

そして、私がそうしてもらったように「スピリットに語りかける言葉」を届ける仕事に憧れていました。

私もかつて、スピリットに語りかけられ、意識が目覚めた経験何度もしたから。

ならば「自分の魂の純度を高めよう。」

「愛を探求して愛を伝える人になろう!」

何の具体性もなく、ただそこに向かう決意をしました。

抽象的すぎる「愛」

自分が何を表現したいのか?

コンセプト探しはまさに『自分探し』でもありました。

まずは書きたいことを書いてみる・・・が日課。

少しづつ今できることを積み重ねてみよう。

5年間、ブログを書くことで、向かう方向への「制限」を少しづつ外してきました。

お主は何を制限としてるのか?自由って何なのか?

ひたすら自分を知り理解するためのブログだったように思います。

いつしかそのブログには、自分がハートから望む在り方そのものが表現されていました。

PC一つで世界を飛び回るなんて言ったけど、ぶっちゃけ、世界に興味があるのか?と言われれば、

そこにあるのは「解放感」で、

所有するものはなく、なんのとらわれもなく、ただ言葉を綴って生きたかっただけかもしれない。

後の付属物は、かっこつけたかったのかな。

あれから、「今できること」の範囲は広がり、経験を重ねるほど、

具体性も加わり、カタチ(イメージ)もぼんやり見えてきていました。

その先には、家族のあり方や自分が住んでる場所、周りにいる人のイメージがあって

2年後、10年後、30年後まで手帳に書き込んでいました。

ところが、そのイメージにときめかなくなってしまったのです。

ときめきがなくなるなんて・・・

しんどい。

そんな自分とは裏腹に、三次元的な現実世界では、結構うまくいっている。

会う人がみるみる穏やかになっていたり、

エネルギー値が高まっているのを感じる。

内と外のギャップがあって

エネルギーが、なんだか混線状態に感じます。

結局、外の世界と内の世界は、タイムラグがあるのだ。

ギャップを感じる時ほど、自分のバランス感覚を一掃して

「真ん中」のニュートラルなポジションを探り直す時。

今日は自分のためのメッセージを内側のハートの奥へ問いかけてみた。

『カタチにこだわらず、一切の影響力を捨てていく。

自分自身と周りを導く灯火のように、慈愛に満ちた在り方を。

多くの人が、違和感を感じるとき、気持ち悪いから、焦ってその状態を抜けようと、外側に答えを求めたり、誰かにすがってしまいがちです。

でも本当に真の答えが欲しい時は、内側から答えが来るのを待とう。

ただ明るく感じる方へ向いているだけでいい。

カタチはその都度、与えられるから。

与えられる自分を信じて。今できることを一つ一つ丁寧にやって行けばいいのだと思う。

満月よ。ありがとう。

☆最後に一言メッセージ

いろんなエネルギーが交差する時は、一切の影響(エゴゲーム)を捨てよ。

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